目の前の人の死から、自分の生への意味を改めて探す

歳をとるごとに関わった方の9の訃報などを聞くことが多くなってきた。

その時にいつも思うことだが今目の前で目をつぶって動かなくなってしまったご遺体の精神や魂といったものは一体どこに行ってしまったんだろう。

本当に目の前にいる方は器としての入れ物何だったのだろうか…。

そして100%間違いなく言えるのがいつか自分もこのようになり自分が生きてきた影響といったものが最終的に集まってくれた方であるとかいろんな人とのつながりなどでしか表現できなくなったりするんだろうなと思う。

とても怖い事でもあるし不安になることでもあるが考えても仕方がない。

なぜならば私は今生きている呼吸をしお腹がすいたらものを食べ何かがしたいと思ったらそれを子目的のために働かなければならなければ働くそして自分の人生と言うものをどういう風に構築するのかと言うこともずっと考えていきながらその中で自分の家族伴侶である妻子供たちのことに対して何が今できるのかと言うことを考えさせられてしまう。

よく自分で思うように生きれば良いと言う言葉があったりもするが、結局のところは人に認められた行き方をしながら勝自分流に出せる事は何なのかと言うことを探し出さなければならない。

そしてそのための表現として世の中で生きていくためにはお金が必要でありそのお金もどうやってやるのかと言うところも必要になってくる。

そしてその生き方そのものも否定する人や肯定する人といった人が生まれてしまうその中で自分はどこを目指すべきなのか何を除外し何を積極的に取り入れていけばいいのかと言うことも自分で選択するしかないのかなとも思う。

そう考えると1-48人の声といったものは何らかのゲームに行く例えられたりとかするがまさにそうかなぁと思う。

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