前に人生と言うものはゲームに例えられると言うようなことを軽く最後に触れて終わっていたが、良い意味でも悪い意味でもやはり人生はゲームなのかなと思う。
ただしそのスタート地点と言うものは人によって様々であり、自分を支える家族が実は的であったりすると言うようなこともあったりする。
そこに愛情や愛情といった感情面から体が支配されてやらないといけないことをやらない。
やってはいけないことをやってしまう。
と言うようなこともよくある話だと思う。
みんながみんな同じように真面目にやって考えて行動して失敗も受け入れてその失敗から何かしらを得て次の新しい何かを行動していくと言うことですべての人間が成功するのであればそんなものはもはやゲームでも何でもないと思う。
残酷な話だが誰かが負けてるから誰かが買っているのではと思う。
だけど最後に死んでしまうと言うようなことで終えてしまうこの人生と言うゲームも日本の文化であるツヤや葬儀といったことを持ってしてゲームと言うのはを得るのかなと思う。
だからこそ自分の生き方それを受け継いでくれる人そしてその受け継いだ中から新たに行動していくと言うことををつないでいくことが大事なことであり、できることならば無縁仏といった扱いにならないように生きていきたいと感じる。
そういう意味であれば日本の葬儀や強といったこの行事に関してはいろいろな意味合いや感じ方があると思うが人が集まると言うことに関しては何かしらの情報のやりとりであったり意識の切り替わりと言うものが起こると言うことであればそれを達成することができさえすれば人数の多さは関係なくその時の亡くなられた方と言う人の人生は素晴らしいものとして称えるものと考えた方が良いのかもわからない。
実際は人は死んでしまえば何も感じることもないし思うこともできないだけどもそれをそれとして切り捨ててしまえばそれこそ生きている意味といったことや家族を作り世の中に誰かと共に生きていくと言う上のこと全てが意味不明なものになってしまいそうでそう思ってしまう。
人生と言うこのゲームを終えるときには誰か1人でもいいのでバカだなぁと笑ってくれたり楽しかったねと言ってくれたりするような人が1人でも入るような生き方をしたいなと思う。